追悼 八代亜紀

今年は年明けから暗いニュースが続きましたが、八代亜紀さんの突然の訃報には声を失ったひとがたくさんいたと思います。73歳・・・・・・まだまだご活躍されたはずなのに。

2009年に雑誌『アサヒ芸能』で「平成演歌物語」という短期間の連載をしました。ふだんはテレビでしか観ることのない演歌歌手たちの、本来の活動場所であるライブの会場に行って、インタビューとステージの撮影をさせてもらう企画。なるべく東京以外の場所にしたくて、いろんな地方都市のホールを巡りました。

なんとかツアー、みたいにルートを決めて効率的にライブを重ねていくロックバンドとかとちがい、演歌歌手たちは「呼ばれるたびにそこへ行く」興行です。かなりの人数になるバンドメンバーも、大道具小道具もぜんぶ自分持ちで、スタッフが何人も前乗りして準備を整えて。メディアにはなかなか出てこない、そういう演歌世界のリアリティを知りたくて、水森かおり、田川寿美、香西かおり、伍代夏子さんら大御所を取材させてもらったうちで、トリを飾ってくれたのが八代亜紀さんでした。もう14年も前の記事ですが、連載では2週にわたって掲載した文章と、モノクロでしか出せなかったステージ写真をあわせて再掲載させていただきます。ちなみに公演撮影は神奈川県平塚市の文化芸術ホールでした。

謹んでご冥福をお祈りします。


ラジオ局の玄関に立っていると、目の前に漆黒のベントレーが滑り込んできた。ナンバープレートの末尾は「846」。ドアが開き、降り立った八代亜紀さんは、セーターにパンツの軽装。帽子やサングラスで顔を隠すこともせず、「こんにちわぁ」と、友達に会ったような笑顔をこちらに向ける。でも、そのオーラは隠しようがない。芸能人は見慣れているはずの、ロビーにいただれもが動きを止め、道をあける。八代亜紀、59歳。歴代総売上数、女性演歌歌手でトップ。いま、まぎれもなく、日本最高の女性歌手だ。

1950年8月29日、八代亜紀さんは橋本明代として熊本県八代(やつしろ)市に生まれた。奇しくもマイケル・ジャクソンと同じ誕生日である。父・敬光は裕福な農家の息子、母・タミ子は理髪店の娘だったが、結婚を反対されて若くして駆け落ち。田んぼのなかに建つ農機具置き場が住まいだった。裸電球ひとつ、二間四方の「家」で生まれた明代は、虚弱児と言われるほどからだが弱く、2、3歩あるくとへたりこんでしまうほどで、「代」が「夜」につながるのかと、小学校入学前に「明子」に改名されている。

まだ戦争が終わってすぐのころで、日本全体が貧しくて、贅沢なんて言ってられないのに、好き嫌いが激しくて。だから母がうちの裏にある南天の葉っぱとか、ほうれん草とか、そういうのを茹でたり煎じたりして、こしてドンブリ一杯つくった青汁を、毎日飲まされました。泣きながら、鼻つまんで飲まされて、幼稚園まで片道1時間近くをてくてく歩いて通うようになって、だんだんからだがよくなったようです。




父の敬光はもともと画家志望だったが、高校卒業後に海軍入隊、潜水艦乗りだった。実家を出てからは昼間、工場に勤め、家でひと休みしたあと、夜、球磨川にかかる鉄橋を渡って魚を獲る。翌朝、母のタミ子がその魚や漬け物を町に売りに出るという生活だった。

よく覚えてるのは、お父さんが球磨川の河原に写生に連れて行ってくれたんですね。お父さんが絵を描くのを手伝うのが、わたしは大好きで。そこでお父さんがいつも自慢するんです、「父さんはあの鉄橋を夜中に歩いて渡るんだ、トンネルの向こうにいい魚がおるんだよ」って。わたしはそれがものすごく怖くて。夜中に鉄橋渡ってて、汽車が来たらどうしようとか思うと眠れなくなって、夜中にふすまを開けては「まだ(お父さん)死んでないかな」とか確かめたり。それくらい、両親が好きな子供でしたねえ。

小学校3年のころに転校、新しい小学校の校門前に両親が「赤い屋根で、庭にお花があって、うしろにきれいな小川があって、蛍がいっぱい飛んでる」家を建てる。母はその家で子供相手の本屋を開業、そのうちにお腹の空いた子供のために駄菓子を置くようになった。

お母さんがね、固いスルメを一日水に漬けてふやかして、それを黒糖入れた水飴に漬けて串刺しにしたのを作って。それが長蛇の列になるほど大ヒットしちゃった! でもそのうちに、お父さんが会社勤めを辞めて運送会社を興すことになって、もっと広いところにまた転校することになったんです。中学に入るころでした。


祖父は相撲甚句が得意、父は大の浪曲好きという家系に育った少女の明子は、蓄音機で覚えた浪曲や美空ひばりの歌を、歌詞の意味もわからないままに歌っては周囲の大人を感心させる歌上手だった。父や母に歌を誉められるのはうれしかったが、人前で歌わされるのは、ほんとうにイヤだったという。

物心ついたころ、3、4歳でしょうか、そのころから町内会の集まりとかにひっぱり出されて、歌わされるのがイヤでイヤで。父の怒りが爆発寸前になるまで駄々をこねて、最後はふすまやドアの裏に隠れて歌う、そんな人見知りの激しい子供でした。内気で、むしろ歌より絵を描いて、それを誉められるほうが好きだったんです。

父がくれた鉛筆と画板を肌身離さず持ち歩いては、風景や家族や、空想の世界を描くことに夢中だった少女。そのなかで何気なく描いた1枚のスケッチが、彼女の運命を変えることになる。ドレスを着た女性がマイクの前に立って歌う姿を描いた絵を、父が見ていて、レコード店で偶然、その絵にそっくりなジャケットのレコードを買ってきた。『クライ・ミー・ア・リヴァー』などで知られるアメリカのクラブ歌手、ジュリー・ロンドンのアルバムだった。

そのジャケットを見た瞬間、からだに電気が走ったみたいに驚きました。だって自分の絵、そのままなんですもの。そのころ見たことなかったはずのワイヤレスマイクまで、そっくりで。いま考えると、浪曲ばかり聴いていたお父さんが、そんなの選ぶわけないから、「アキが描いた絵そっくりだ」と思って買ったんでしょうね。それで中味を聴いてみたら、自分みたいなハスキーボイスだし、うっとりするぐらい大人っぽくて。わたし、小さいころからハスキーな声だったみたいなんですけど、それで自分も歌手になれるかも、と思いはじめたんですね。


小学校5年生の少女が、ジュリー・ロンドンと出会った。解説に書いてある「アメリカの一流クラブ・シンガー」という言葉に憧れ、自分も将来はクラブ・シンガーになろうと、ひそかに決意する。アメリカと日本では「クラブ」の意味がまるでちがうということなど、もちろんわからずに。

お父さんに言っても、怒られるに決まってますから、それからは隠れて歌の練習でした。うちが運送会社で、トラックがたくさんあったでしょ。若い運転手さんに頼んで、夜、エンジンをかけてもらって、トラックの中で発声練習してたんですよ。大きい声出しても、家に聞こえないようにね。

会社を興してから、社員の給料のやりくりや支払いに苦労する両親の姿を見て、明子は子供ごころに「早くわたしがなんとかしなきゃ」と思っていたが、典型的な”肥後もっこす”だった父は、子供がそんなことを言おうものなら、「殺されちゃいますよ(笑)」という性格。歌手になる夢はこころに秘めて、中学を卒業してすぐ、明子は地元のバス会社に就職することになった。

とにかく早く仕事に就いて家計を助けたかったし、バスガイドだったら父も反対しないだろう、歌もたくさん歌える、それに歌手になるには引っ込み思案を直さなきゃならないから、人前で歌う訓練にもなって一石二鳥、三鳥とか思ったんですけど、それは子供の浅はかさでしたね。もう、名所旧跡の解説の暗記で毎日勉強、勤務は早朝から夜遅くまでだし、歌えるのは民謡ばっかり! しかも引っ込み思案はぜんぜん直らなくて、お客さんに冷やかされてるうちに名所旧跡を通り過ぎちゃったり。そんなこんなで、バスガイドしててもダメだなあと思いはじめたときに、ガイドの友達に教えられて、八代市内のクラブに、歌手のオーディションに行ったんです。


そのころの八代市は工場の進出やい草の生産で繁栄し、市内にはいくつものクラブが競いあっていた。15歳の明子は、叔母にもらったパーティドレスを身につけ、化粧を濃くして「18歳です」と偽り、『白馬』という名前の店でオーディションを受ける。「バスガイドは地声でしょ、そこでエコーがかかった自分の声が、生バンドに乗ってフロア中にふわ~って広がるのが、すごく素敵で。オーディションで歌ったのに、お客さんがみんな立ち上がってダンスを始めちゃって」という状態で、即採用決定。さっそく翌日から歌いはじめたが、しょせんは狭い町のこと、3日でお父さんにバレてしまう。








八代市のキャバレーニュー白馬は1958(昭和33)年創業、39年に現在の場所に移転し、そのまま当時のスタイルで現在も営業を続ける、ほぼ日本唯一のグランドキャバレー(15年ほど前にキャバレー白馬からニュー白馬に改称)

バスガイドは半年ぐらいやってたんですが、帰りが夜遅いので、お父さんがいつも通りまで出て待っててくれたんです、遅くまで大変だねって。クラブで歌うようになってからは、バス会社に行くふりして毎朝、家を出てたんですが、その夜だけ、お父さんが待ってないんですよ。なんだかイヤな予感がしましてね、おそるおそる家に帰ったら、お父さんが黙って座ってて。背中向けたまま「そこに座れ」って言われて、ああ来たなって覚悟しました。


20115年にはニュー白馬で新曲「Sweet Home Kumamoto」(ロバート・ジョンソンの「Sweet Home Chicago」熊本版!)の楽しいライブPVも撮影された。

「お前はいつから不良になったんだ!」という怒声とともに、父親のビンタが飛ぶ。「東京で歌ば勉強したか・・・・・・」という娘の声に、ますます逆上した父は、柱時計を取って投げつけ、壊れた破片が明子の背中に当たった。

とにかくお父さんは怒り狂うし、お母さんは「アキ、謝れ、お父さんの言うとおりにしろ」の一点張り。わたしは怖くて、ひと言もしゃべれずにずっと黙ってて。涙がぽとぽとって畳に落ちる音が聞こえるんです。そのとき柱時計がグワーッて飛んできて、もちろんわたしに当たらないように投げたんですけど、破片が背中に当たっちゃったんですね。それでウッて声を上げた瞬間、お母さんがお父さんの太ももに飛びかかって、噛みついてました、「あんた、この子を殺す気ね?」って。

父も譲らなければ、娘も譲らない。「なんでそぎゃん頑固か」と問いただす父に、「父さんの子だから」と、蚊の鳴くような声で答えたら、もう父もなにも言えなくなってしまったという。そして16歳の誕生日を迎えたその日に、明子はひとり、家族のもとを去って東京に旅立った。

怒ったままでも、実はわたしの心配を両親はちゃんとしてくれていて、東京に着いたらまず、目黒にあったいとこ夫婦の家に居候することになりました。新婚ほやほやで、四畳半のアパートだったのに、わたしの場所を作ってくれて。それで早くなんとかしようと思って、新聞広告で生徒を募集していた音楽学校に入学したんですね。


見つけた音楽学校はきちんとしたところだったが、まず月謝が続かない、それに「担任の先生がちょっと変わってて、わたしに歌をやめて、すぐ結婚してくれって迫るんです」というありさまで、まもなく学校を辞めてしまう。ただ在校中、16歳の明子はコロンビア・レコードのオーディションを受けて研究生に採用され、オーケストラとともに八代市で凱旋コンサートを開いてもいる。実はレコード・デビュー用にオリジナル曲まで用意されたのだが、「吹き込む前にお金の問題が発生して、けっきょくボツになっちゃったんです」。

そのことについて八代さんはいまも多くを語らないが、デビューに際して大金を要求され、レコード業界に見切りをつけたであろうことは、想像に難くない。「そんなことがあって、学校もコロンビアも辞めちゃって、クラブシンガーで生きていこうって、スイッチを切り替えたのね」。

まだ16歳、熊本から出てきて数ヶ月の少女が、生活費にも事欠くようになって、門を叩いたのが新宿歌舞伎町の「美人喫茶バラード」だった。美人喫茶とは、当時歌舞伎町に何軒かあった、美女のウェイトレスを揃えた喫茶店のこと。客の横に座るわけではなく、注文を運んでくるだけだったが、それでコーヒー1杯がふつう80円の時代に、バラードでは600円。そういう高級店で、やはり即採用になった明子は、ドアガール兼歌手として働きはじめた。


美人喫茶で、明日から来てって言われて、給料いくらほしいって聞かれたのね。熊本でバスガイドしてたころは月給が7000円だったんです。それで1万円ぐらいって言おうかな、でも新人のくせに1万円もって言われたらどうしようって悩んでたら、「10万円でいい?」って言われてびっくり。だってその当時、大卒の給料が1万いくらの時代ですから。

歌舞伎町で明子の歌は評判になり、1年もしないうちに今度は銀座のクラブからスカウトされた。17歳でクラブ『シルクロード』に入ったのを手始めに、のちに「五木ひろし」となる三谷謙が専属で、耳の肥えた客が集まっていた『エース』に移る。そのころ、新宿で10万円だった給料は20万円に上がっていた。

そのころは「あき」って呼ばれてたんですが、とにかく楽しい毎日でしたね。お給料もたくさんもらってましたし、「あきちゃんの歌を聴きにきた」ってお客さんがいっぱいいて。ホステスのおねえさんたちはかわいがってくれるし、なによりわたしの歌を聴いて、お客さんや、おねえさんたちも涙ぐんでくれたりする。それが、わぁ~素敵! それだけでした。ずいぶんレコード会社のひとも誘いに来ましたが、前にイヤな思いをしたこともあって、けんもほろろに断ってたんです。


そんななかでひとりだけ、断られても断られても、「とにかくいちど、歌いに来てみないか」と口説きつづけたディレクターがいた。歌手・八代亜紀を世に出すことになる、テイチク・レコードの景山邦夫である。

景山さんが何度も通ってくれて、それを見ていたおねえさんたちも「わたしたちはあきちゃんの歌をタダで聴けるけど、世の中にはあきちゃんの歌で泣きたい、悲しい女のひとがたくさんいるんだから、レコード出して」とか言われるようになって、しょうがなくて「じゃあ行ってみてやるか」みたいな超生意気な態度だったんですが、けっきょくレコード出すことになっちゃったんですね。それがデビュー曲の『愛は死んでも』でした。

「あなたが背中を向けたから わたしの愛は死にました あぁぁぁ いやよ いやよ いやよ いやよと燃えつきて 疲れたけれど よろこびに ふるえていたの きのうまで」・・・・・・。歌謡曲が演歌からポップスへと大きくシフトする時代のただなかで、21歳の女の子のために作られた、それはテレビやラジオよりも夜のクラブのフロアにむしろふさわしい、あまりにも動物的にセクシーなデビュー曲だった。


1971(昭和46)年、八代亜紀21歳。銀座の超売れっ子クラブシンガーから、だれも名前を聞いたことのない、テレビにもラジオにも出たことのない新人レコード歌手になって、彼女の生活は一変した。娘のデビューを支えるべく、一家あげて熊本から家族も上京。父は運送会社を畳んで、工事現場の監督をしながら娘の成長を見守るようになる。しかしその前途には、厳しい荒波が待ちかまえていた。

いまはインディーズで作ってプロです、っていうひとがたくさんいるでしょ。でも当時は、レコード会社の専属歌手にならないと、プロとして認められなかった時代です。それで専属になると、もうクラブでは歌えない。それまで20万円あったお給料が5万円になって。家賃が3万5000円なのに。

レコード会社から1000枚、2000枚って買い取っては、キャバレーを回って歌って、客席を売り歩く。でも、レコード屋で売れるのとはちがうから、いくら売ってもチャートが上がりはしない。おまけに最初についたマネージャーに騙されて、レコードを売ったお金から給料から、全部持ち逃げされる、最悪の事態になる。マネージャーと別れて、勝手に作られた借金まで背負って、「一時は自殺も考えたほど落ち込みました」という八代亜紀に残された道は、たったひとりのドサまわり生活だった。

レコードと、バンドの全員用の分厚い譜面と衣装が入ったトランクに、化粧バッグを両手に抱えて、1ヶ月に28日は地方のキャバレーで一日3ステージ。ドレスは2着しかなかったのを、2年間大事に着回しました。トランクは20キロ近くあって、手のひらはマメだらけ、お客さんと握手するのも恥ずかしい。片腕だけ少し太く長くなっちゃいました。


翌年に発売した第2弾『別れてもあなたを』も、やはり不発。どうしようもなくなった彼女は『全日本歌謡選手権』に挑戦という、最後の賭けに出る。よみうりテレビ系の超人気番組だった『全日本歌謡選手権』は、アマチュアとプロが同じ舞台で審査員の採点を受け、10週勝ち抜けばチャンピオンとなる、他に例を見ないユニークな番組だった。アマチュアがチャンピオンになればレコード・デビューのチャンスが与えられるが、プロがもし10週勝ち抜けなかったら、それは即・プロ失格の烙印を押されたことになる。しかも審査員たちは、プロにことさら厳しい採点で知られていた。そんな番組にエントリーすることは、プロにとって歌手生命の生死を決する、あまりにきわどい決断だった。

デビューはしたものの、ずっと鳴かず飛ばずで、このままだらだらやっててもしょうがないと思って、ケジメをつけようと自分で応募したんです。これで落ちたら、きっぱり歌手は辞めるという覚悟で。まわりは、みんな無茶だって止めましたが。

挑戦1週目は『あなたのブルース』、2週目は『命かれても』と、ハスキーな声を生かした男性の歌で順調に勝ち抜き(「審査員の先生方にはみんな誉められましたが、淡谷のり子先生だけには、毎回けちょんけちょんにけなされました」)、回が進むごとにテイチク社内からも「あんなに歌のうまい歌手を、うちは放っておいたのか!」と声が上がるようになった。そして四国新居浜で開催された10週目のチャレンジに、不発だったデビュー曲の『愛は死んでも』をあえて選んだ亜紀さんは、見事に10週勝ち抜きチャンピオンに輝く。歌手・八代亜紀が、死に際から甦った瞬間だった。


亜紀さんの実力を認めたテイチク社内に作られたチームは、まず再デビューの試作品として『恋街ブルース』をリリースしてみたところ、1ヶ月で10万枚のヒットを記録。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の新御三家がチャートを賑わすポップス全盛時代のなか、直球の演歌で勝負しての数字だった。

翌1973年2月には、満を持して『なみだ恋』で再デビュー。「夜の新宿 裏通り 肩を寄せあう 通り雨」という出だしから印象的なこの曲は、いきなり120万枚を超えるメガヒットになった。あとを追いかけるように発売された『女ごころ』も50万枚。けっきょくその年、八代亜紀のシングル・セールスは280万枚に達し、紅白歌合戦初出場も果たす。たった1年前まで、重いトランクを引きずりながら雪の中をひとりぼっちでキャバレー巡りしていた彼女に、この展開が予想できただろうか。


それからの八代亜紀の活躍は、みなさんご存じのとおりだ。『しのび恋』、『おんなの夢』、『あなたに尽くします』、『花水仙』、『もう一度逢いたい』、『愛の終着駅』と毎年大ヒットを飛ばし、1979(昭和54)年の『舟唄』、そして翌年30歳で『雨の慕情』でのレコード大賞・大賞獲得と、23歳の再デビューから30歳までの、怒濤のヒット攻勢は、ほんとうにすごかった。それも天地真理、山口百恵、桜田淳子など、第1期アイドル全盛期に、「みんなが”ルンルン”なんてやってるときに、八代亜紀ひとりドレス姿で演歌ですから」という、ほとんど孤軍奮闘の状況での活躍だった。

もう、歌謡ポップスばっかりのときの八代亜紀でしょ、しかもだれが大賞とってもおかしくない時代ですよね。それで1年に1枚ヒットがあればふつうはいいんですが、年に3枚全部、ベストテンに入ったときとかあって。だからスケジュールも半端じゃなくて、年の暮れになるとかならず、車の中で点滴打ちながら歌うというのが、定番になってましたね。

それほど絶好調の年月を送っていた亜紀さんに、しかしまたも大きな試練が降りかかる。『雨の慕情』の翌年に9年間在籍したテイチクを離れて、翌1982(昭和57)年に新設のセンチュリー・レコードと契約したことに始まる、マネージメント騒動だった。


これにはすごいもろもろがあって、ここでは言えないんですけど・・・・・・わたしの正義感がちょっと失敗しちゃったというくらいしか。人間関係のごたごたの末に、自分でレコード会社を作らなくちゃならないことになってしまって、それでいざフタを開けてみたら、わたしのレコード会社じゃなくなってて、自分はただの一歌手だったという。ほんとはわたしの個人レーベルで、軌道に乗ったら新人も育てようねってことだったのに。それで当然うまくいかなくて、1年、あと1年と「辞めたい、いや辞めないでくれ」の闘いがあって、けっきょく5年目にコロンビアに移籍することになりました。当時の会長さんに声をかけていただいて。最初がもともとコロンビアだったでしょ、「ずいぶん遠回りしてきましたね」なんて言われちゃいました。

4年間のごたごたの末、レコード会社は新しくなって心機一転できたが、テイチクからの移籍とともに立ち上げた「チーム八代亜紀」とも言うべきプロダクションのほうは、さらに金銭面でのトラブルが続いて、スタッフを精算、新規入れ替えするまでにけっきょく8年間という歳月が必要になった。

ですからわたしの30代は、最大のスランプでしたね。精神的にも、思い上がりがあったと思うし、同時にすごくイライラしてました。歌い方だって無理してるから、そのころのレコーディングはいまでもぜったい聴きたくない。でも仕事はびっちり入ってましたから、休むわけにはいかない。33歳のときには自宅で階段から落ちて尾てい骨骨折をしちゃったんですが、ちょうど1ヶ月の座長公演で、歌はもちろん、剣劇のお芝居まである。歯を食いしばって、ぎちぎちのテーピングで痛みをこらえながら、一日も空けないで舞台をこなしたこともありました。ノドもポリープで2回、手術してますし。

無理に無理を重ねての、超過密スケジュール。一時は「コンサートでイントロが鳴っただけで、歌いたくなくなる、事務所のほうが気になっちゃって。そんな”歌いたくない症候群”みたいになったことさえあります」とまで追い詰められた末の1991(平成3)年、歌手生活20周年を迎えた翌年に、八代亜紀さんは最愛のお父さんを急性心不全で失う。享年63歳という若さだった。

あれでわたしは完全に打ちのめされました。お父さんがどれだけ大切な存在だったか、そのとき初めて、ひとりで徹底的に考え抜いて。それで「アキ、おまえの痛みも苦しみも、すべてわかってた。お父さんが全部背負ってあげるから、軽くなってもういちどがんばるんだ」って、暗黙のうちに教えてくれてたんじゃないかって。そう思ったらいろんなことにふんぎりがついて、決断できたんです。

父が代表をつとめていた歌手・八代亜紀のマネージメント会社を、それまで10数年間にわたってマネージャーとしてサポートしてきた増田登さんが引き継ぎ、1993(平成5)年には43歳で、その増田さんと婚約発表、翌年1月にオアフ島で結婚式を挙げている。

そうやって40代になって、わたしはようやく安定したと思います。平成2年に歌手生活20周年曲の『花束(ブーケ)』を出してるんですが、それが長い暗闇から抜け出せるきっかけになりましたね。

「ひとり暮らしに 慣れたのに 愛も気にせず 生きたのに 罪な心が届けられ わたし 女を 思い出す」という、むかし別れた男からふたたび花束が届いて揺れる女ごころを、しかし明るく軽やかに歌ったこの歌は、暗く長かったスランプの時期を経て、ふたたびいきいきと花ひらいた八代亜紀さんの、歌ごころそのままだったのだろうか。


21歳でレコード・デビューしてから、来年で40年。『なみだ恋』の再デビューからは、30代の苦しい時期を含めて、現在までずっと、「年間120本のコンサート」という超人的なペースが続いてきた。30代にはそのうえさらに東京と大阪で1ヶ月の座長公演が毎年重なって、「だからテレビやコンサートだけ観ているファンの方は、わたしがどれくらいスランプだったか、わからないかもしれない」。さらに再デビューからいまにいたるまで、ずっと続けている少年刑務所へのボランティア慰問や福祉活動。そしてこれもよく知られている、画家としての活動。「いまはどんなに忙しくても、月に2回、3日ずつ、アトリエにこもって絵を描く時間をマネージャー役の旦那さまが取ってくれるから、それがなにより気分転換になって、うれしいんです!」と微笑むが、その驚異的なエネルギーは、40年間に及ぶその持続力は、いったいどこから生まれてくるのだろう。

とにかく、大変きついです。疲れます。ずーっとこのペースですから。でも、40年間うたってきて、いまもこれだけオファーがあるということが、どれほど素晴らしいか、ということですよね。「ふつう、もう落ちてるよ、あれだけごたごたがあったら」って、みんなに言われるんですが、いまだに年間120本。仕事の量はむしろ増えてるくらいですから。


いまがいちばん幸せな状態で歌えて、絵を描いていられると話す八代亜紀さん。僕らはテレビやレコードで歌手・八代亜紀をすっかり知った気でいるけれど、ほんとうの魅力はコンサートでしかわからない。「わたしはもともとクラブシンガーですから。コンサートでいつまでも色あせないでいること、いつもお客さんをいっぱいにできること、それが歌手としてのすべてでしょ」と本人も言い切る。

舞台の脇でカメラのファインダーを覗いているとわかるけれど、ふつうの歌手には、一流といわれる人でも、ふたつかみっつしか”決めの表情”がない。でも八代亜紀には4つか5つ、ちがう決定的瞬間がある。つよさ、もろさ、はかなさ、わびしさ、あでやかさ・・・・・・。

舞台の幕が開いて、スポットライトに歌手が浮かび上がれば、拍手は湧く。しかし口をひらく最初のひとこと、一音節で、すべての聴衆のこころをぐっとつかんでしまう、それほどの存在感を放つ歌い手は、まずいない。

芸能メディアはあいかわらず「演歌は終わった」と言い立て、今年の紅白はだれが出て、だれが落ちたかなんてことばかりをネタにする。そういうレベルからはるかに遠い世界で、こんなひとが歌いつづけていて、それを熱烈なファンか、たまたま自分の町でコンサートやるから見にいこう、というひとたち以外ほとんど知らないという事実。

もし、あなたがいささかでも音楽を愛し、それでいて八代亜紀の舞台をまだ体験したことがないとすれば、失っているものはあまりにも大きい。


初出:アサヒ芸能 2009年


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ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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